岡太神社・大瀧神社 奥の院
大瀧神社は養老3年(719)この地を訪れた泰澄大師が、国常立尊(くにとこたちのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を主祭神として十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建、大瀧兒権現と称して建立された。中世、大瀧兒権現は白山信仰の霊場として栄え、48坊の堂塔、社僧700余名を擁し隆盛を極めたが、織田信長の一向一揆討伐の際一山ことごとく焼失させられた。しかし、その後領主となった丹波長秀を始め歴代領主の厚い保護によって再度復興していった。
明治になり神仏分離令によって、大瀧兒(ちご)権現は大瀧神社と改称、また、大正12年(1923)には大蔵省印刷局抄紙部に川上御前の御分霊が奉祀されて岡太神社は名実共に全国紙業界の総鎮守となりました。現在の下宮本拝殿は、天保14年(1843)に江戸時代後期の社殿建築の粋を集めて再建されたもので、昭和59年(1984)にその歴史記録の確かさと建築の美しさから、国の重要文化財に指定されました。また、平成4年(1992)には、神門廻廊等が新たに造営されました。
そして、平成29年(2017)に、1300年大祭・御神忌を機に奥の院拝殿の建替えと石階段の修理が行われました。
川上午前の図
神社宝物殿収蔵