岡太神社・大瀧神社

天保15年(1844)に予定されていた式年大祭(御開帳)に備えて、前年の天保14年(1843)に造営された複合社殿で、曹洞宗本山永平寺の勅使門を作り上げた一代の名棟梁大久保勘左衛門の手になる建築である。
普通、神社は拝殿と本殿はそれぞれ独立して建てられる場合が多い。しかし、彼は一間社流造り本殿の屋根を入母屋造り妻入りの拝殿に連結して葺きおろした複合社殿を考案した。
山の峰を集めたような、あるいは幾重もの波が寄せ合うような屋根、複雑さの中に流れがあり、重厚さの中に躍動がある。拝殿正面の獅子、龍、鳳凰、草花の彫刻さらには側面、背面の中国の故事を題材にした丸彫りの彫刻など、まさしく精巧を尽くした作品で飾られてる。

本殿北側板面 「張良・黄石公図」


 右面は、漢の張良は秦の始皇帝の暗殺に失敗して下ひに隠れていた。あるとき卑しい身なりの老人が履(くつ)を橋下に落とし、張良に拾わせたが、張良はこれを拾って差し出した。老人は足を出してこれを受けたという。別れるとき老人は「五日後に来れ」と言って去った。
 左面は、張良が言葉通りその場所に行くと、すでに老人は待っていて一巻の書物を授けた。その書物は太公望呂尚の兵法書であり、「これを読めば王者の師とならん」といい、なお「十三年後、私を見たかったら山東省の穀城山に来れ、それが黄石である」と告げて立ち去ったという。
 中央の面は、剣に乗って波の上に浮かぶという仙人の術を表したもの。

本殿西側板面

 右面「厳子陵図(げんしりょうず)」
 厳子陵は後漢の高士。本名、厳光(げんこう)。光武帝の学友であったが、光武帝が即位後、諌議太夫(かんぎだゆう)に召されたが、士官をことわり、富春山に耕し、釣りなどをして隠士として一生を終わった人である。その釣りをした所を厳陵瀬と名付けている。

左面「賢媛諌言図(けんえんかんげんず)」

 陶侃(とうかん)は若いとき魚梁(やな)づくりの役人となった。あるとき壺に入れた鮓を母に贈ったところ、母はその鮓に封をして使いの者に持たせ、手紙を書き、「お前は役人となりながら、官物を私に送ってくれた。このことは無益であるばかりでなく、私の心配を増すだけである」と陶侃を責めたとする故事に拠るもの。

袖面 「截髪図(せつぱつず)」

 陶侃(陶淵明の曾祖父)は若い時から大志を抱いていた。家は貧乏で母の仞湛と一緒に暮らしていた。同郡の范逵(はんき)は名士であり、孝廉(孝行で潔白な人物として官史に特別任用された者)に推挙され、県の小役人となっていた。あるとき陶侃の家に部下達をつれて泊まることになった。その時母の湛は長い髪を截ち切って二つの髢(かもじ)を作り、これを売って金にかえ、それで酒肴を買って客をもてなしたという故事を表している。

本殿東側板面 「許由(きゅゆう)・巣父(そうふ)」

 右面は「許由」の故事で、中国の理想の天子といわれた尭帝(ぎょうてい)が、天子の位を許由に譲ろうとしたが、許由は汚らわしい話を聞いてしまったとして、潁川(えいせん)の水で耳を洗ったという故事に拠るもの。
 左面は、「巣父」の故事で、巣父がたまたま牛に水を飲ませようと潁川にやって来たが、許由が耳を洗った話を聞き、そのような水を牛に
飲ませるわけにはいかないと言って立ち去ったという故事を表している。

本殿東側袖板 「三酸図」

 道教の黄魯直(こうろちょく)、儒教の蘇東坡(そとうば)が金山寺の仏印禅師を尋ねて、大甕(おおかめ)に入った桃花酸をなめ、三人とも眉をひそめたという、儒・仏・道三教の根本的な一致を比喩として描き表したものであると思われる。