岡太神社・大瀧神社

伝説では

今から1500年ほど前、継体天皇が越前におられ男大迹皇子と呼ばれていた頃、村里の岡太川の上流に美しい姫が現れて「この村里は谷あいで田畑が少ないが、水清らかな谷川と、緑豊かな山々に恵まれているので、紙漉きを生業とすれば生活も楽になるであろう」とねんごろに紙漉の技を里人に教えたという。
よろこんだ里人が「どなたさまですか?」と尋ねると、「岡太川の川上に住むもの」と答えて立ち去られたという。
以来、この教えを受けた人々は、この姫を「川上御前」とあがめ奉り岡太神社を建ててお祀りし、その教えに背くことなく紙漉の技を伝えて現在に至っています。

岡太神社・大瀧神社 奥の院

 大瀧神社は養老3年(719)この地を訪れた泰澄大師が、国常立尊(くにとこたちのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を主祭神として十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建、大瀧兒権現と称して建立された。
中世、大瀧兒権現は白山信仰の霊場として栄え、48坊の堂塔、社僧700余名を擁し隆盛を極めたが、織田信長の一向一揆討伐の際一山ことごとく焼失させられた。しかし、その後領主となった丹波長秀を始め歴代領主の厚い保護によって再度復興していった。

 明治になり神仏分離令によって、大瀧兒(ちご)権現は大瀧神社と改称、また、大正12年(1923)には大蔵省印刷局抄紙部に川上御前の御分霊が奉祀されて岡太神社は名実共に全国紙業界の総鎮守となりました。
現在の下宮本拝殿は、天保14年(1843)に江戸時代後期の社殿建築の粋を集めて再建されたもので、昭和59年(1984)にその歴史記録の確かさと建築の美しさから、国の重要文化財に指定されました。
また、平成4年(1992)には、神門廻廊等が新たに造営されました。

祭礼図絵馬 天保五年(1834年)三月 石川敬白

 長い歴史を経てきた日本人の宗教思想・宗教観である『神仏習合』の祭礼の様子を克明に描出しています。
 山上の奥の院からは、現在でも行われているような「お下り」が描かれており、下宮(里宮)の拝殿前では、仏教支配で「法華八講」が取り行われています。

川上午前の図

神社宝物殿収蔵